酒造りはみんなでするもの誰もがチャンスを手にできるように 喜多の華酒造場《福島県喜多方市》 - fukunomo(フクノモ) ~福島からあなたへ 美酒と美肴のマリアージュ~

酒造りはみんなでするもの誰もがチャンスを手にできるように 喜多の華酒造場《福島県喜多方市》

「また飲みたい」
ただ、そう言ってもらえるように

・四代目/杜氏 星 里英さん

三代目蔵元の長女。
東京の印刷会社で勤務した後、退職して短大の醸造学科で酒造りを学ぶ。2013年に喜多の華酒造場に入社した。

 

「蔵の町」として知られる福島県喜多方市には、現在十軒の酒蔵があります。
その中で最も若いのが、「喜多方で一番を目指す」という願いを込めて名付けられた喜多の華酒造場です。
若いとはいえ、創業は大正八年と歴史は百年以上。
決して大きな蔵ではありませんが、だからこそ、隅々まで目の行き届いた丁寧な酒造りをー。
その想いをずっと大切にしてきました。
四代目として蔵を率いている星里英さんは、二十代半ばで酒造りの道を歩むことを決断。
会社員を辞めて短大を受験し、酒造りを一から学びました。
彼女のストーリーを聞いてみましょう。

 

26歳で酒造りの道へ

現在、四代目として蔵を率いる里英さん。三代目の長女ですが、蔵を継ぐつもりはまったくなかったそうです。大学を卒業した後は、東京の会社に就職。時折、東京で販売会がある時に手伝いをしていました。
しかし、「これはどんなお酒なんですか?」
「酵母は何を使っているんですか?」
とお客さんから質問をされても、答えられません。手伝いとはいえ、これではまずいのでは……?
その思いから、社会人枠で醸造学科を受験することに。会社を辞めて勉強に専念するという選択はかなり大きなものに思えます。それでも、卒業後に蔵に戻ると決めていたわけではなく、ただ純粋に「学びたい」「知りたい」という気持ちが大きかったのだといいます。

の思いが根底にあったからか、「大学はとても楽しかったです」と里英さん。
18歳の同級生たちは里英さんよりもずっと日本酒に詳しく、熱意を持っていました。また、ビールやワインを造りたいという社会人学生も多く、さまざまな人との交流に刺激を受けました。彼らの熱意に感化されていく中で、1年次の終わりに東日本大震災が起こります。
2年間の学生生活は、自分にとっての「生業」「地元」について深く考える時間となりました。その後、「本気でお酒を造ろう」と決意し、東京から福島へ。
 
蔵に戻って1年目。三代目である父の敬志さんは、いきなり1.2トンのタンクを1本里英さんに任せました。まだまだ勉強中の身、プレッシャーはかなり大きなものでしたが、「せっかくなら自分らしいお酒を」という想いで造ったのが、『喜多の華』。看板商品『蔵太鼓』とは真逆の、甘口で華やかな香りのお酒が生まれました。当初は毎年ラベルの色を変えていましたが、誕生10年目を機に、ボーダー柄に統一。里英さんらしいブランドは、新たな蔵の看板商品となっています。

甘口全盛の時代の、食事に合う辛口

今月お送りした『蔵太鼓』は、30年以上前に三代目が造った銘柄です。当時、日本酒は甘口が主流でしたが、新しいことに挑戦したいと「食事に合う辛口」をコンセプトに。スッキリとキレのある味わいで、どんな料理にも寄り添ってくれる、喜多方で長く愛されてきた一本です。
 
ちなみに「蔵太鼓」というのは、地元・喜多方の伝統芸能のこと。住民が太鼓や笛で編成を組み、夏祭りなどで演奏します。
「蔵太鼓」というお店や商品がたくさんあるというのが愛されている証拠でしょう。喜多方に訪れた際には、ぜひさまざまな「蔵太鼓」を探してみてください。

 

誰かの記憶に残る一本を、皆で

 

「酒造りは一人ではできない」―。
12年間酒造りに携わってきた里英さんが実感していることです。蔵には若いスタッフが増え、いつしか里英さんは教える側の立場になってきました。自分が教わってきたこと、学んできたことを次の世代にどう引き継いでいくのか。彼らが「ここで働きたい」と思ってもらえるような蔵とは。酒造りの外側、蔵のあり方についても考え続けています。
「お酒の味わいは、甘口でも辛口でもいいんです。ただ、『これ、また飲みたいな』と思ってもらえるお酒を……。
誰かの記憶に残る一本を造ることができたら、本当にうれしいです」
 
蔵の規模は小さくとも、志は大きく。今日も喜多の華酒造場では、一滴一滴が丁寧に醸されています。